Krishnamurti 危機・挑戦・全的行為    Ver 1.23

―全体作用、観念なき、過去なき行為―




私は思うのですが、観察、見ることの性質と美を理解することが重要です。
心が何かで―神経症的な刺激と感情によって、恐怖、悲嘆によって、
健康状態によって、野心、気取り、権力の追求によって―歪んでいる限り、
とても聞き、注視し、見ることはできません。
見ること、聞くこと、注視することの術は養成されるものではなく、
発達や段階的な成長の問題ではありません。
危険に気づくとき、即座の行為が―本能的瞬間的な身体と記憶の反応が―あります。
子供の時から、人は危険に対処するそのようなやり方を条件づけられ、そのため心も即座に反応します。
さもなければ肉体的な破壊があります。
私たちは、そのなかに条件づけが全くない「見ること」そのもののなかで行為することが可能かどうか問うています。
心はどんな形の歪曲に対しても自由に即座に反応し、
その結果、行動することができるでしょうか。
すなわち、知覚、行為、表現がすべて一つの、です。
それらは切り離されておらず、ばらばらではありません。
「見ること」そのものが行為であり、それは見ることの表現です。
恐怖への気づきがあるとき、
それを心底から観察するので、その観察そのものが心を恐怖から解放することであり、
それは行為です。
私は、これは非常に重要なことだと感じます。
私たちは未知のもののなかに入り込むことができるかも知れません。
しかし、どのようにであれ、
自分の恐怖、野心、貪欲、絶望、その他何やかやで深く条件づけられた心は、
並外れて健康な、正気な、均衡が取れ、調和した存在を必要とする何かに入り込むことはできません。

そこで私たちの問題は、
心は、特定の形の誤用、特定の形の努力、暴力に気づくことができるかどうか、です。
そして、それを見、徐々にではなく即座に終わりにすることができるかどうか。
このことは「知覚」と「行為」との間に時間が生じるのを許さないことを意味します。
危険を見るとき、時間の隔たりはありません、即座の行為が生じます。
私たちは、来る日も来る日も見守り、実践することによって
徐々に賢くなり、悟りを開くという観念に慣れています。
それは私たちが習慣にしていることで、それが私たちの文化と条件づけの型なのです。

暴力を終わりにすることは可能でしょうか。
外面的にだけではなく、深く潜んだ我々の存在のまさに根源において。
攻撃の感覚、力の追求を終わりにすることはできるでしょうか。
「完全に見る」―まさにそのことのなかで、
時間が生じるのを許すことなしに、それを終わりにすることができるでしょうか。
通常私たちは、「見ること」と「すること」の間に時間が入るのを、
「あるがままのもの」と「あるべきもの」との間の遅れを許します。
達成したり何か他のものになるために「あるがままのもの」を除去したいという欲望があります。
この時間の間隙を非常に明確に理解しなければなりません。
私たちは子供の時から、
「結局は、やがて、いつかは、何かになるだろう」と考えるよう教え、育てられるので、
そのような見地から考えるのです。
それで技術を学ぶために必要な時間と、
知覚と行為に干渉する時間を許す危険とを混同しないようにしましょう。



ものごとを、そうであるとおりに明晰に見るためには、
心はもはや選択をしていてはなりません。
非難、評価、判断などをしていてはなりません。
それは時間を要する訓練の問題ではありません。
危険なものがそこにあるとき、あなたは即時にそれを見、対応します。
反応は即時です。
あなたの全存在がそこにあります。
そこに「習得」という問題はありません。



知的に、あるいは情緒的にではなく、全的にあなたがこれを見るとき、
あなたは全く異なった生き方をすることでしょう。
危険な崖に直面したり猛獣に出会ったりすれば、
部分的な理解や行為ではない、全的な、完全な行為があります。
しかし私たちは、生活のなかで四六時中、そのような危機に直面している訳ではありません。
いえ、本当はそのような危機に常に直面しているのですが。

生活の全体は一瞬一瞬にあります。
一瞬一瞬が挑戦なのです。
この挑戦に不適切に出会うことが生における危機です。
私たちはそれが危機であることを見たくないので、
眼をつむってそこから逃げようとします。
そのため、私たちはますます盲目になり、危機は増大するのです。



私たちが何かを本当に観察するなら、そしてそれを本当に理解するなら、
そのとき、まさにその事実そのものがそれ自身の行為・作用をもたらします。
私はどうやって行為すべきかを考える必要はないのです。



あなたは言語を介さない理解を望みます。
それは、あなたの心が話し手の心と同じ強烈さで、
同じ情熱で、同時に接しているなら為されます。
そのとき、それは起こるでしょう。

さあ、今、あの列車の通りすぎる音を聞いて下さい!
........言葉なしの伝達がなされました!
なぜなら私たちの双方が、同時に、同じ強烈さで、同じ情熱でもって、
あの列車の音を聞いたからです。

あなたはこのことに、話し手と同様、強烈ですか?
もちろん、そうではありません。
あなたが他の人の手を取るとき、
あなたは習慣的にそれをすることができます。
あるいはそのとき、伝達が言葉なしに起こることがあり得ます
―双方がその与えられた瞬間、強烈であるならば。

しかし私たちは強烈ではありません。
情熱的でも、関わりあってもいません。



経験に基づいた行為とは、行為を制限するものであり、従って行為の障害になります。
観念の結果ではない行為は自然で自発的なものであって、
そのような場合には、経験に基づく思考の過程は行為を抑制していないのです。
と云うのは、精神が行為を抑制しないとき、
経験から独立した行為があるからなのです。
理解というものが生まれるのは、こういう状態のときに限られるのです。





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